15.源頼朝(みなもとのよりとも)の孫(まご)一幡(いちまん)殺害(さつがい)は?

源頼家(みなもとのよりいえ)と若狭局(わかさのつぼね)の子で、源頼朝(みなもとのよりとも)の孫(まご)にあたる一幡(いちまん)。

建仁(けんにん)3年(1203年)に父・頼家が重病にかかり危篤(きとく)状態(じょうたい)になると、相続(そうぞく)を巡(めぐ)って若狭局の実家・比企氏(ひきし)と祖母(そぼ)方の北条氏(ほうじょうし)が対立して、比企能員の変(ひきよしかずのへん)が起きたんだ。

その時にまだわずか6才の一幡は、北条義時(ほうじょう よしとき)らに攻(せ)められて、若狭局と共(とも)に焼死(しょうし)したと伝(つた)えられているんだ。

焼跡(やけあと)から一幡の小袖(こそで)(=着物のような形で筒袖(つつそで)の衣装(いしょう)のこと。鎌倉(かまくら)時代には、豪華(ごうか)な小袖のブームもあった)が見つかって、涙(なみだ)を誘(さそ)った。
・・・と、歴史書(れきししょ)『吾妻鏡(あずまかがみ)』には書いてあるんだよ。

ところが、当時鎌倉にいた公家(くげ)が京都で報告(ほうこく)した内容(ないよう)は違(ちが)っていて、一幡を若狭局が抱(だ)いて逃(に)げたけれど、山狩(が)りをされて見つかってしまい、母子ともども北条の郎党(ろうとう)(=武家(ぶけ)の家来で、その一族ではない者)に刺殺(しさつ)されたというんだ。

『愚管抄(ぐかんしょう)』という史論書(しろんしょ)には、そのように記録(きろく)されているんだよ。