古文書ってなに?
-古文書探検隊(たんけんたい)が行く-
古文書から分かったことデータベース
古文書で歴史(れきし)が書きかえられたこと50選(せん)2

さあ、見てみようか。古文書からわかった新事実。
こうだったと言われていたことや歴史(れきし)の教科書も書きかえられちゃったものもあるんだよ。
続いて26~50!!

そうなの? これはちょっと楽しみ!

ちょっと自慢(じまん)できるかもね。

26.実在しなかったABCD包囲陣というのは、当時の日本の新聞の造語。

アメリカ、イギリス、中国、オランダの元首はもちろん、アジアにおける軍司令官の合同会議も一度も開かれていないし、条約なども締結されたことはなかった。

27.ルーズベルト大統領は・・・

誤った複数の情報から、日本軍が真珠湾攻撃を行うことを偶然正確に推定していた。

28.日本もアメリカの外交電報を解読していた。

暗号情報の解読では一方的にアメリカが優位にあったとされているが、日米開戦直前では、アメリカの外交電報暗号も日本によって解読されていた。

29.初期の室町幕府では、守護は対等ではなく、足利一門出身守護に大きな軍事権限が与えられていた。

武士への戦いの褒賞を約束する感状はすべて足利一門の守護だけが発給している。

30.大坂夏の陣で・・・

毛利勝永と真田信繁の大活躍で大坂方は勝利目前だったが、大野治長の不用意な城への移動で敗北となった。
大阪夏の陣の後も生き延びた大坂方武士の記録類で決定的な戦いの転換点は、家康本陣が真田によって崩壊した後で大野治長が豊臣秀頼の馬印を保持したまま部隊全体で秀頼の出馬を促すため大坂城に戻ろうとしたことで、徳川軍の反撃の機会となった。

31.討死した真田信繁と嫡子大助以外の家族は殆ど無事だった。

真田信繁の未成年の男子も女子もほとんどが伊達氏を中心とした東北の諸大名にかくまわれ子孫が続いた。

32.源実朝暗殺直前に・・・

太刀持ち役の北条義時は気分が悪いと実朝と同時に切られた源仲章と交替した。
北條義時は少なくとも事件が起きることを事前に知っていたことは確実。

33.比企能員の乱、伊賀氏の変はいずれも北条氏の捏造。

『吾妻鏡』以外の資料によって、北条氏の権力拡大のためいずれも捏造された政変だったことが知られるようになった。

34.安土城は上杉謙信の上洛に備えるために築いた城だった。

国宝の洛中洛外屏風図は、信長が謙信に贈ったものだが、やがて上杉軍の上洛に備えて近江平野での防衛拠点としての意味があったことが明らかになった。

35.日本には世界一たくさんの古文書が残されている。

中国の数倍の分量の古文書が日本に残されているが、紙の原料に恵まれていたこともあるが、徹底した文書至上主義があった。
また使用済み文書を先祖の由緒を証明する記録として保存した。

36.天皇や上皇が貴族に叙位任官する文書は再生紙だった。

貴族に叙位任官を伝達する口宣案や天皇綸旨など社会的に最高の権威を持つ朝廷の発給文書は、すべて再生紙であった。

37.戦国時代は、応仁の乱より早く関東で享徳の乱で始まっていた。

戦国時代の始まりは、京都で始まった応仁の乱とされているが、それを遡る12年前に関東で始まった享徳の乱から以後戦国時代となったということが正しいとされるようになった。

38.北条早雲は成り上がり者ではなく、幕府執事伊勢家の出身だった。

北條早雲は典型的な下克上での成り上がりもの大名とされてきたが、幕府執事の伊勢氏の出身であったことが判明した。

39.北条政子は、源頼朝が死んでから朝廷からもらった名前。

ドラマで頼朝が、政子とよぶはずがない。
朝廷から下賜された「政子」の名前は、通例に従わず夫頼朝の名前の一字を取らず、父親時政から一字を取って頼朝死後に与えられている。

40.北条時政は父の名前は系図によってバラバラで実名はよくわからない程度の武士。

北條家の作成した系図はいくつか伝来しているが、時政の父の名は一致せず事実わからない。

41.日本製の火縄銃は・・・

もとになったヨーロッパ製のムスケット銃より性能が良いから、左種子島伝来銃2丁は高く売れたが、その後ちっとも売れなくなった。
銃身が刀鍛冶の鍛えたもので作られ、ヨーロッパ銃のような銑鉄製ではなかったのでより多量の火薬を装填できたので射距離に優れていた。

42.種子島へ伝来した火縄銃より半世紀も前に・・・

中国から青銅製の鉄砲が伝来して使用されていたが、弓より性能が悪くてあまり普及しなかった。
青銅製のためにすぐに加熱し射撃間隔が必要で、また青銅製の銃身で強度が低いので射距離も短く実践的ではなかったので普及しなかった。

43.小田原北条氏の軍隊は、五色の旗で部隊を編成していた。

白・黒・青・赤・黄の旗を差した部隊を前線に配置し、予備部隊には「いろはにほへと・・・」の仮名の旗指物で小部隊を多数配置していたことが分かった。

44.鎌倉・南北朝期の弓には、600メートルも矢を飛ばせる強弓があった。

軍記物語だけではなく、軍忠状に記されているので事実と判明する。

45.中世の主食のコメの食べ方は、雑炊が普通だった。

現在のご飯は、「姫飯」といい特別な場合に食べていて、毎日普通に食するのは雑炊だった。

46.朝鮮出兵や関ヶ原で活躍した嶋津義弘は・・・

90歳を過ぎて認知症になっても、陣太鼓を聞かせるときちんと自分で食事をとることができた。
島津家の記録から戦後も長生きした義弘の日常を記録した覚書が見つかった。

47.古代の公務員は午前中で仕事を終えて、午後は内職仕事に精を出した。

木簡に記された奈良時代の勤務評定から、午後は仕事がなかったことが判明。

48.長崎に原爆を投下したB29戦闘爆撃機は・・・

暗号解読によって日本側によって事前航路を探知されていたが、迎撃命令が出されなかった。

49.南北朝動乱の初期には・・・

多くの武士たちには、後醍醐天皇と足利尊氏ではなく、足利対新田の争いであると認識されていた。
当時の武士たちが書いた文書に、新田と足利の紋所の旗を掲げて戦った記録が見つかった。

50.応仁の乱では、東幕府と西幕府が戦ったという認識になった。

征夷大将軍を同時に2名朝廷が任命して、大義名分としては幕府は二つに分裂していたことが分かった。