-古文書探検隊(たんけんたい)が行く-
古文書で歴史(れきし)が書きかえられたこと50選(せん)2
さあ、見てみようか。古文書からわかった新事実。
こうだったと言われていたことや歴史(れきし)の教科書も書きかえられちゃったものもあるんだよ。
続いて26~50!!
そうなの? これはちょっと楽しみ!
ちょっと自慢(じまん)できるかもね。
アメリカ、イギリス、中国、オランダの元首はもちろん、アジアにおける軍司令官の合同会議も一度も開かれていないし、条約なども締結されたことはなかった。
誤った複数の情報から、日本軍が真珠湾攻撃を行うことを偶然正確に推定していた。
暗号情報の解読では一方的にアメリカが優位にあったとされているが、日米開戦直前では、アメリカの外交電報暗号も日本によって解読されていた。
武士への戦いの褒賞を約束する感状はすべて足利一門の守護だけが発給している。
毛利勝永と真田信繁の大活躍で大坂方は勝利目前だったが、大野治長の不用意な城への移動で敗北となった。
大阪夏の陣の後も生き延びた大坂方武士の記録類で決定的な戦いの転換点は、家康本陣が真田によって崩壊した後で大野治長が豊臣秀頼の馬印を保持したまま部隊全体で秀頼の出馬を促すため大坂城に戻ろうとしたことで、徳川軍の反撃の機会となった。
真田信繁の未成年の男子も女子もほとんどが伊達氏を中心とした東北の諸大名にかくまわれ子孫が続いた。
太刀持ち役の北条義時は気分が悪いと実朝と同時に切られた源仲章と交替した。
北條義時は少なくとも事件が起きることを事前に知っていたことは確実。
『吾妻鏡』以外の資料によって、北条氏の権力拡大のためいずれも捏造された政変だったことが知られるようになった。
国宝の洛中洛外屏風図は、信長が謙信に贈ったものだが、やがて上杉軍の上洛に備えて近江平野での防衛拠点としての意味があったことが明らかになった。
中国の数倍の分量の古文書が日本に残されているが、紙の原料に恵まれていたこともあるが、徹底した文書至上主義があった。
また使用済み文書を先祖の由緒を証明する記録として保存した。
貴族に叙位任官を伝達する口宣案や天皇綸旨など社会的に最高の権威を持つ朝廷の発給文書は、すべて再生紙であった。
戦国時代の始まりは、京都で始まった応仁の乱とされているが、それを遡る12年前に関東で始まった享徳の乱から以後戦国時代となったということが正しいとされるようになった。
北條早雲は典型的な下克上での成り上がりもの大名とされてきたが、幕府執事の伊勢氏の出身であったことが判明した。
ドラマで頼朝が、政子とよぶはずがない。
朝廷から下賜された「政子」の名前は、通例に従わず夫頼朝の名前の一字を取らず、父親時政から一字を取って頼朝死後に与えられている。
北條家の作成した系図はいくつか伝来しているが、時政の父の名は一致せず事実わからない。
もとになったヨーロッパ製のムスケット銃より性能が良いから、左種子島伝来銃2丁は高く売れたが、その後ちっとも売れなくなった。
銃身が刀鍛冶の鍛えたもので作られ、ヨーロッパ銃のような銑鉄製ではなかったのでより多量の火薬を装填できたので射距離に優れていた。
中国から青銅製の鉄砲が伝来して使用されていたが、弓より性能が悪くてあまり普及しなかった。
青銅製のためにすぐに加熱し射撃間隔が必要で、また青銅製の銃身で強度が低いので射距離も短く実践的ではなかったので普及しなかった。
白・黒・青・赤・黄の旗を差した部隊を前線に配置し、予備部隊には「いろはにほへと・・・」の仮名の旗指物で小部隊を多数配置していたことが分かった。
軍記物語だけではなく、軍忠状に記されているので事実と判明する。
現在のご飯は、「姫飯」といい特別な場合に食べていて、毎日普通に食するのは雑炊だった。
90歳を過ぎて認知症になっても、陣太鼓を聞かせるときちんと自分で食事をとることができた。
島津家の記録から戦後も長生きした義弘の日常を記録した覚書が見つかった。
木簡に記された奈良時代の勤務評定から、午後は仕事がなかったことが判明。
暗号解読によって日本側によって事前航路を探知されていたが、迎撃命令が出されなかった。
多くの武士たちには、後醍醐天皇と足利尊氏ではなく、足利対新田の争いであると認識されていた。
当時の武士たちが書いた文書に、新田と足利の紋所の旗を掲げて戦った記録が見つかった。
征夷大将軍を同時に2名朝廷が任命して、大義名分としては幕府は二つに分裂していたことが分かった。