18.徳川家康(とくがわ いえやす)は、豊臣氏(とよとみし)存続(そんぞく)をギリギリまで考えていた。

慶長(けいちょう)5年(1600年)関ヶ原(せきがはら)の戦(たたか)いに勝利(しょうり)し、江戸(えど)幕府(ばくふ)を開いた徳川家康(とくがわ いえやす)。

でも、それですぐに天下太平とはいかず、その後も、戦いは続(つづ)いていたのは知っているよね。

家康の天下統一(とういつ)への最後(さいご)の戦い「大坂の陣(じん)」。

その時、家康は「豊臣氏(とよとみし)が大坂城(じょう)内の浪人(ろうにん)を追い出すか、大和国(やまとのくに)(=現在(げんざい)の奈良(なら)県)などへの国替(が)えに応(おう)じれば一大名として存続(そんぞく)させる」つもりだったらしいんだ。

つまり、家康は豊臣家をつぶさないで、残(のこ)そうと考えていたんだよね。

徳川軍(ぐん)の動員命令(めいれい)のなどの文書の内容(ないよう)をみると、そう考えていた、ととられることが、近年の研究で分かってきたんだ。