25.源頼朝(みなもとのよりとも)は、暗殺(あんさつ)という手段(しゅだん)をよく使った。

佐竹義政(さたけ よしまさ)は平安時代後期の武士(ぶし)で、平清盛(たいらのきよもり)の元で戦(たたか)っていたんだ。

でも平家が負けてしまった。平家に勝った源頼朝(みなもとのよりとも)は上洛(じょうらく)(=当時日本の中心だった京都に行くこと)しようとしていたんだけど、幕府(ばくふ)の家来の上総介広常(かずさのすけ ひろつね)たちは、常陸(ひたち)(=今の茨城(いばらき)県)の佐竹が、服従(ふくじゅう)していないからやっつけた方がいいと言い出したんだ。

広常は頼朝から義政暗殺(あんさつ)の命令(めいれい)を受けていたので、義政を橋の上に「2人で話そう」と呼(よ)び出して殺したんだ。

義政の弟の佐竹隆義(たかよし)や甥(おい)の佐竹秀義(ひでよし)は金砂城(かなさごじょう)に逃(に)げたけど、結局(けっきょく)頼朝に負けてしまうんだ。

寿永(じゅえい)2年(1183年)12月、その広常も、反逆(はんぎゃく)する計画を立てたとして、またもや頼朝に暗殺されちゃうんだ。

だけど、広常の鎧(よろい)から見つかった願文(がんもん=神様や仏様(ほとけさま)への願(ねが)いをかいた文書)は頼朝の武運(ぶうん)を祈(いの)る文書であったから、頼朝は広常を殺したことをとても後悔(こうかい)したんだって。

この広常の願文は千葉県長生郡(ちょうせいぐん)一宮町(いちのみやまち)の玉前神社に石碑(せきひ)として建(た)てられているよ。
この神社には、広常の甲冑(かっちゅう)が寄付(きふ)されているんだ。

同じ源氏(げんじ)だけれど、源義高(みなもとのよしたか)は、頼朝と対立していた新宮行家(しんぐう ゆきいえ)たちを守った事で暗殺されたし、源義経(みなもとのよしつね)にも暗殺者が差し向けられていた。

頼朝は暗殺という手段を何度もつかっているんだよ。