31.討死(うちじに)した真田信繁(さなだ のぶしげ)、遺(のこ)された家族は?

真田信繁(さなだ のぶしげ)といっても、ピンとこない人もいるかもしれない。

信繁は真田幸村(さなだ ゆきむら)のこと。
それほどに、後の彼(かれ)の通り名・真田幸村の方が有名となっているよね。
でも、本人は死ぬまでずっと信繁の名を使っていたんだ。

その信繁、大坂夏の陣(じん)で、豊臣(とよとみ)方につき、活躍(かつやく)するんだ。

真田隊(たい)は一番後ろで、追ってくる伊達政宗(だて まさむね)隊と戦(たたか)いながら、豊臣全軍の撤収(てっしゅう)を成功(せいこう)させたんだ。
徳川家康(とくがわ いえやす)にも自害(じがい)を二度も覚悟(かくご)させるほどの攻撃(こうげき)も行ったんだよ。

でもその後は軍の作戦(さくせん)がうまくいかず、最期(さいご)は、西尾宗次(にしお むねつぐ)に討(う)ち取られて亡くなるんだ。
享年(きょうねん)49。

で、遺(のこ)された家族は、というと、長男の大助(=真田幸昌(さなだ ゆきまさ))は父と一緒(いっしょ)に戦ったけれども、大将(たいしょう)豊臣秀頼(ひでより)の切腹(せっぷく)に殉(じゅん)じて亡(な)くなったんだ。彼
(かれ)はこの大坂夏の陣が初陣(ういじん)だったんだよ。

でも、大助以外の家族はほとんど無事だったんだ。
普通(ふつう)なら一族はみんな殺されてしまうんだけど、敵(てき)の徳川方の伊達政宗に守られて遺ったんだ。高野山(こうやさん)・蓮華定院(れんげじょういん)に残(のこ)る記録では、次男の大八は、「石投(な)げで亡くなった」とあるけど、実は、京都の伊達家家臣(かしん)である片倉重長(かたくら しげなが)家に預(あず)けられ、後に仙台(せんだい)真田家として残るんだ。

三女の阿梅(おうめ)も片倉重長が連れ帰ったんだ。
他の兄弟もほとんどが伊達氏(し)を中心とした東北の諸(しょ)大名にかくまわれ子孫(しそん)が続いたという記録(きろく)にはあるんだ。

大坂夏の陣では敵だったけど、戦った時にきっと相手を見込(こ)んだんだね。