50.応仁(おうにん)の乱(らん)では、東軍と西軍が戦(たたか)ったというけど・・・
応仁(おうにん)の乱(らん)は室町時代1467年(応仁元年)に始まり11年間も続(つづ)いた戦(たたか)いで、その後120年もの間、日本国内で争(あらそ)いが絶(た)えなかった「戦国(せんごく)時代」のスタートにもなったものなんだ。
東軍(ぐん)(=東幕府(ばくふ))と西軍(=西幕府)に分かれた大きな戦いで、その戦いの中心地であった京都は焼(や)け野原になってしまったんだ。
その原因(げんいん)は、将軍(しょうぐん)の跡継(あとつ)ぎ問題や家と家の対立など、いくつかあるとされていたんだ。
もともと将軍(しょうぐん)というのは、幕府の代表者に対して、朝廷(ちょうてい)(=天皇(てんのう)や貴族(きぞく)が政治を行うところ)が与(あた)える職名(しょくめい)で、正式には征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)というんだ。
ところが、その時の朝廷が、関わりのある者2人同時に征夷大将軍に任命(にんめい)してしまったので、この2人がそれぞれ幕府の長となって、東と西の2つに分裂(ぶんれつ)していたことが分かったんだ。
それに、当時、力が弱まっていた将軍に代わり、守護大名(しゅごだいみょう)が力をつけていて、その中でも強い細川勝元(ほそかわ かつもと)の一派(いっぱ)(=東軍)と、山名持豊(やまな もちとよ)の一派(=西軍)とに日本中の大名が分かれてついたので、争(あらそ)いが激化(げきか)していったんだ。